プロフィール

フォトアルバム
スタッフ

Shunです。五反田ダイニング「器」の、ネット担当ということで、よろしくお願いいたします。趣味の話、お酒の話、お料理の話…思いつくまま書いていきます。どんな、展開になるのやら?!

最近のトラックバック

もっとお店のブログを見る

« 鳥と鶴?日本ウイスキーの誕生物語・その1 | メイン | 器のお勧め 夏酒&鳥せせりのペペロンチーノ »

2010年7月21日 (水)

鳥と鶴?日本ウイスキーの誕生物語・その2

竹鶴が、摂津酒造の

阿部社長を、説得しイギリスへ留学。

というお話の続きです。

竹鶴は、グラスゴー大学で蒸留理論を

学びながら地元の醸造所で働きはじめました。

その醸造所で人一倍熱心に働きながら

ウイスキー造りを

自分のものにしていきました。

やがて、竹鶴はリタというスコットランド女性と

恋に落ち、結婚し、彼女を連れて帰国しました。

しかし「摂津酒造」に戻ってみると、

「摂津酒造」ではもはや「ワイン」など

洋酒を造ることは止めて、

日本酒作りに専念していたため、

竹鶴の居場所がなくなっていました。

彼は、摂津酒造を去り、教師となり暮らしはじめました。

同じ頃、鳥井はイギリスの友人を通じて

ウイスキー作りの技術者を、探していました。

返事は、日本人にも優秀な技術者がいる

タケツルという男だ。ということでした。

しかも、この時の日本は、日英同盟を、

破棄していたのです。

イギリスの技術者を呼ぶことは困難でした。

鳥井は、竹鶴の元を訪れます。

それは、教師になって1年後のことでした。

そして「壽屋に来ないか」と誘った。

鳥井商店は、大正10年壽屋に変わっていました。

一緒に本格的な国産ウイスキーを造ろう

と説得しました。

一も二もなく、了承したと思います。

彼は、10年という期限付きで壽屋に入社。

竹鶴は、蒸留所をスコットランドに近い気候の

北海道にしたかったようでした。

しかし、流通や製造コストなどの面から

鳥井の考えで、京都の山崎に工場を

創ることを承知させられたようです。

竹鶴は、新しい工場建設のための

「工場建設主任」なりました。

これが、今のサントリー「山崎蒸留所」。

そして2人の努力が実って誕生したのが、


本格的な国産ウイスキーの記念すべき第一号

「サントリーウイスキー」。

1929年(昭和4年)のことでした。

当時は単に「サントリーウイスキー」

だけでしたが、

ラベルが白かったため、愛飲者たちから「白札」

と呼ばれるようになり、戦後は「シロ」と呼ばれ、

1964年からは、

現在の「ホワイト」の愛称となりました。

続いて翌年1930年(昭和5年)に

2人が生み出したのが、

「白札」より価格を抑えたウイスキー、「サントリー赤札」。

これがのちの「サントリーレッド」です。

やがて、1931年(昭和6年)、

竹鶴は鳥井の勧めで

英国とフランスにワインとリンゴ酒の

研究留学に旅立ち、

翌年帰国します。

しかし、この頃から次第に2人の間に

ウイスキーに対するこだわりに違いがあることを

はっきりと認識するようになったようです。

そして、1934年(昭和9年)に、

ついに竹鶴は壽屋を退職してしまいます。

そしてスコットランドの風土に

よく似た北海道余市に

理想の原酒工場を建てようと

決意することになります。

さて、この辺のいきさつと、

ニッカの誕生に関しては

またの機会にということで・・・。

最後に。

袂を分かった2人ですが

竹鶴が鳥井を尊敬していた事を

伺わせる文章があります。

後年、竹鶴が、

自分の著書でこう書いています。

~とにかくあの清酒保護の時代に、
鳥井さんなしには民間人の力で
ウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには
私のウイスキー人生も考えられない~

(竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より抜粋原文引用)

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://cms.blog.gnavi.co.jp/t/trackback/570329/28764003

鳥と鶴?日本ウイスキーの誕生物語・その2を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。

五反田 ダイニング 『器』 のサービス一覧

五反田 ダイニング 『器』